七言絶句
賀知章 回郷偶書
少小離家老大回 鄉音無改鬢毛衰
兒童相見不相識 笑問客從何處來
詠柳
碧玉妝成ㄧ樹高 萬條垂下綠絲縧
不知細葉誰裁出 二月春風似剪刀
王昌齢 芙蓉樓送辛漸
寒雨連江夜入吳 平明送客楚山孤
洛陽親友如相問 一片冰心在玉壺
閨怨
閨中少婦不知愁 春日凝妝上翠樓
忽見陌頭楊柳色 悔教夫婿覓封侯
從軍行
青海長雲暗雪山 孤城遙望玉門關
黃沙百戰穿金甲 不破樓蘭終不還
李白 送孟浩然之廣陵
故人西辭黃鶴樓 煙花三月下揚州
孤帆遠影碧山盡 惟見長江天際流
贈汪倫
李白乘舟將欲行 忽聞岸上踏歌聲
桃花潭水深千尺 不及汪倫送我情
望盧山瀑布
日照香爐生紫煙 遙看瀑布掛前川
飛流直下三千尺 疑是銀河落九天
下江陵
朝辭白帝彩雲間 千里江陵一日還
兩岸猿聲啼不住 輕舟已過萬重山
杜甫 漫興
腸斷春江欲盡頭 杖藜徐步立芳州
顛狂柳絮隨風舞 輕薄桃花逐水流
糝徑楊花鋪白氈 點溪荷葉疊青錢
竹根稚子無人見 沙上鳧雛傍母眠
江南逢李龜年
岐王宅裡尋常見 崔九堂前幾度聞
正是江南好風景 落花時節又逢君
絕句
兩個黃鸝鳴翠柳 一行白鷺上青天
窗含西嶺千秋雪 門泊東吳萬里船
贈花卿
錦城絲管日紛紛 半入江風半入雲
此曲只應天上有 人間能得幾回聞
劉禹錫 望洞庭
湖光秋月兩相和 潭面無風鏡未磨
遙望洞庭山水色 白銀盤裡一青螺
烏衣巷
朱雀橋邊野草花 烏衣巷口夕陽斜
舊時王謝堂前燕 飛入尋常百姓家
玄都觀桃花
紫陌紅塵彿面來 無人不道看花回
玄都鸛裡桃千樹 盡是劉郎去後栽
百畝庭中半是苔 桃花淨盡菜花開
種桃道士歸何處 前度劉郎今又來
白居易 暮江吟
一道殘陽鋪水中 半江瑟瑟半江紅
可憐九月初三夜 露似真珠月似弓
大林寺桃花
人間四月芳菲盡 山寺桃花始盛開
長恨春歸無覓處 不知轉入此中來
題李次雲窗竹
不用裁為鳴鳳管 不須截作釣魚竿
千花百草凋零後 留向紛紛雪裡看
杜牧 金谷園
繁華事散逐香塵 流水無情草自春
日暮東風怨啼鳥 落花猶似墜樓人
遣懷
落魄江湖戴酒行 楚腰纖細掌中輕
十年一覺揚州夢 贏得青樓薄倖名
贈別
多情卻似總無情 惟覺尊前笑不成
蠟燭有心還惜別 替人垂淚到天明
秋夕
銀燭秋光冷畫屏 輕羅小扇撲流螢
天階夜色涼如水 坐看牽牛織女星
勉強のメモ 『ヘイト・クライムと植民地主義』
石原真衣「「サイレント・アイヌ」と自己決定権のゆくえ」より引用
「少なくとも札幌という都市空間においてアイヌの存在は前提とされていないということである。今まで非アイヌ系日本人である一般市民が、目の前にアイヌがいるかもしれないという前提を持って語ったり接したりしているのを見たことは一度もない。」
私もそう。アイヌと伝統衣装を着て伝統的な生活をして…という人を思い浮かべる。
そしてカミングアウトをしなくなる。
イメージを固定化された伝統文化と、それによってもたらされる民族イメージの明確化は、アイヌの出自を持つ人間にとって「自分はアイヌ民族ではない」という感覚をもたらした。
都市に生きる先住民族。
何を目指したいか、どんな社会にしたいのかだと思う。
台湾の童謡と日本の童謡
同じメロディだけど違う題材の曲を紹介します。
<ちょうちょ>
日本では「ちょうちょ」ですが
台湾では同じメロディの「小蜜蜂」。
<ぶんぶんぶん>
日本では蜂の歌は「ぶんぶんぶん」。
逆に台湾ではこのメロディーは「玩具的歌」。
<こぎつね>
日本は「こぎつね」
台湾は「森林的小鳥」。
こちらはメロディーと題材が同じもの。
<幸せなら手を叩こう 如果高興就拍拍手>
www.youtube.com<メリーさんの羊 瑪莉有隻小綿羊>
台湾原住民の言語比較(族語E楽園より)
宜蘭澤敖利泰雅語は、寒渓泰雅語といって日本語とのクレオール言語であるが、この教材では日本らしさは注意深く取り除かれている気がする。
むしろ他の言語の方が日本語の単語が載っている。
<看護婦>
南勢阿美語:hu-su(護士)
<幼稚園>
南勢阿美語:yu-ci-ing(幼稚園)
<医者に行く>
南勢阿美語:kincal